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irOOdori 主宰
ワカコ
幼い頃から、泥んこや花、木の実遊びに夢中になり、母の足元で縫い物を眺めながら手芸を覚え、アートを学んだ父を真似て絵を描いてみたりと、手を動かすことで自分を確かめてきました。けれどその一方で、家庭の事情はまっすぐではなく、ときに私の幼心を揺さぶるものでした。
だからこそ「居場所は自分の中にある」と思い込み、ダンスや13歳から始めたスキー、旅行など外部での生活体験が「私を私でいさせてくれる」確かな軸となったのです。
中学生で偶然手にした英文タイプライターにも夢中になりました。その後タイピングへの熱は冷めることなく、IT社会の到来に歓喜し、動画流行りにもチャッカリ乗っかって。
今やそれらが生活を支え、時には命をすり減らすほど没頭してきました。指でしゃべり、指でうたう。
そんな生き方を貫くことも、私らしいと思っています。
学業については体育を専攻し、運動生理学を学びました。
しかし正直に言えば、学んだ知識を体系的に積み重ねたわけではなく、うろ覚えのまま素通りしてきた部分が多い。選挙権は持ってるだけ、社会参加、経済や政治にも疎く、自分を社会から敢えて切り離して暮らしてき た。そのツケの大きさを、いまになって痛感しているのです。
「おいてけぼりにした学び」と「社会から隔絶したまま年を重ねたこと」。その両方が私の中で大きな罪の意識となり、
いま改めて結び直したい衝動を生んでいます。
私はずっと「何かに没頭する熱源」をどう扱うかを探してきました。失敗も未消化も材料にして繰り返す。試しては崩し、また挑む。そのサイクルはまさに筋肉的思考。思考も筋肉と同じで、負荷をかければ硬直もするし、休めば柔らかくなる。人間が考えるためには、身体があり、酸素がいきわたり、ほどほどの水分が満たされていることが欠かせません。思考は生理に支えられた営みです。
そして私は、国力だの成果主義だのではなく、ひとりひとりの意識や命の使い方を大切にする生き方を選びたい。ただ「私はこうしてきた」と差し出すだけです。なぜなら、ものすごく大きな苦しみや悔しさ、悲しさを経て、歪んだ軌道を描いたその先に——棒高跳びのようにバウンスして宙を舞い、生きる楽しさと笑いをけっして忘れていなかったから。
このWebサイトは、その「没頭の熱 源」と「未消化の学び」を再接続する実験の場。
重ねてきた経験をほどき直しながら、命のリズムを確かめ、新しい表現へ歩みを進めています。